2013年2月10日日曜日

美を感じるポイントについて〜不自然なことと自然なこと〜

昨日はニューヨークを
雪嵐(snow stormを直訳しただけ)が襲いました。
今朝は40センチくらい積もってました。
学校は休みになり、バスも運休。
食堂は早々閉鎖になりましたが
この手のことには慣れました。
麻婆豆腐つくって食べました。
(レトルトに豆腐とひき肉突っ込んだだけー)

それよりも、先週末から喉と鼻がおかしい状態がずっと続いていて、
熱とかは全然ないんですが、とても厄介に感じています。
もう1週間経つけど、悪化もしなければ改善もしない。
何とかしてくれー、man!

で、今日は友達の出演するダンスのショーを見てきました。
キャンパスの中でやってたんで、移動の苦もなし。

それを見て、ちょっと思うことがあったんで
書き残しておきます。

何を思ったかというと

不自然なことが自然になされたときに人は美を感じるのではないか

ということです。

突然、何言ってんだこいつ!←正論です。
別にかっこつけようと思って書いてるわけではありませんので
悪しからず。

今日のダンサー達の動きは
はっきり言って人間にとって不自然でしかない
(少なからず僕にはそう思えた)
けれども、それをまんまと自然に演じていたので
自分は美しいなと思ったわけです。

自然なことを自然にやったら自然でしかない。
(おそらくこれが日常ってやつですね、会話とか歩行とか)
不自然なことを不自然にやったら不自然でしかない。
(石につまずいてこけるとか)
自然なことを不自然にやったら滑稽あるいは未熟でしかない。
(訛りとか、ロボットの動きとか、覚えたての言葉を話す子供とか)

で、世間一般に美しいと言われるものって
「不自然が自然」になってることなんじゃないかと
今日の彼らのダンスを見ながら思ったんです。

よほど凄いときは
美しさを感じるとともに
ある種の恐れ、畏怖のようなものすら感じる。

当然、自分の関わっている音楽にも同じことが言えると思います。

音楽は人にとって自然なものだと言う人もいると思いますが、
思うにやっぱりどこか不自然な存在です。
不気味と言ってもいいかもしれません。
雑音や騒音や吐息の音のほうがよほど自然に思えます。

けれども素晴らしい音楽は
本質的な不自然さを持っていながら
あくまでも自然の装いで聴こえてくる。
だから美しいと感じる。

自然というのを「力が抜けている」
と言い換えてもいいのかもしれません。
が、それだけではないような気がします。
この先はよくわかりません。

逆に、本来不自然なものである音楽が
不自然なまま聴こえてくる時ほど苦痛なことはない
という感覚はおそらく誰もが経験したことがあると思います。
音痴なカラオケや、
隣近所から聴こえる酷すぎるピアノ
あるいはバイオリンの練習の音とかですかね。
んー、この例えは違うかな。まあこの辺はよくわかりませぬ。

ともかく、ひるがえって
自分は音楽をいかに自然なものとして表現できているか

あまりにも巨大な命題で考えるのも嫌になりますが
(あるいは考える意味があるのか疑ってしまいますが)
いつもどこかに忘れずにしまっておきたい命題ではあります。

いつだったか、
秋吉敏子さんがテレビのインタビューで

即興演奏という芸術を自然に行うのには
ものすごい量の鍛錬がいる

というような主旨のことを語っていたのを思い出した。

今日のダンサー達も
日々ものすごく鍛錬してるのは間違いない。


と何だかかっちょよく書いてしまいましたが、
現実に戻れば
ああ週明けまでにアレンジ完成させて
曲完成させて
英語の勉強再開して
ジャズ史の英語の文献読んで
よくわからん風邪さっさと治して
練習のペースを戻さなきゃー

See you soon!

(注)ご覧の通り、みそ汁もレトルトです。悲しかー。

0 件のコメント:

コメントを投稿